ねじまき鳥クロニクル


とあるブログで案外毎日書いている「Phinlodaのいつか読んだ本」だが、アクセス数はまるで増える気配のない横ばいで Google の bot ばかり見に来ているような気もするし、アフィリエイトに至ってはまだ1冊も売れていないので、案外手間ヒマのコストの方が高くついているのではないかと思うのだが、最近書いた「ねじまき鳥クロニクル」の書評に裏話的な表現が割とあるような気がしたので、こちらで解説しておく。以前ここで解説したのっていつだっけ? 覚えていない。


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編


この回はかなりヤッツケで書いた感じもしていて、もう一度書き直したいというか、追記したいことが山ほどあるのだが、そんな時間がないから多分放置することになりそうだ。

「髪密度をカウントしている」


小説中には「薄毛の度合いを三段階に区分」と書いてあるのだが、松・竹・梅のどちらがどうなのかは分からない。

「道路の横に座って何かカウントしている人」


交通量調査。新宿とかでカウントする人はいつ見ても凄いと思う。

「フロー状態」


ノリノリでやっている状態。没頭している状態。


ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編


この書評を書いたときは風邪薬のせいで頭がハイになっていたので後から読むと割といいノリで書けているような気がする。しかし書いてあることの意味は自分でもよく分からない。やはり十全に理解するのは不可能だ。

「井戸の底から上を見たことはない」


もちろん井戸の底に降りたこともない。

「満州のハルハ川付近」


ノモンハンの近くにある川。

「単純なモジュールを組み合わせることでこの問題を解決しようとした」


まずは構造化。そしてオブジェクト指向。局所的に何かは解決したような気もするが、それは新たなる戦いの始まりにすぎない。

「そしてプログラマーは途方に暮れる」


大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」という歌を意識している。

「何も考えるな、と思わず考えてしまうアレ」


禅で瞑想するときには何も考えてはいけない。何も考えてはいけない、ということを考えてもいけない。

「禁書目録の当麻とアクセラレータ」


「とある魔術の禁書目録」は鎌池和馬さんのラノベ。上条当麻は何の能力も持っていないが、相手の能力を無効にする力がある。アクセラレータはレベル5、最強の能力者。直接対決では当麻がグーパンチで勝っている。

「かけてもつれた謎を解く」


銭形平次の主題歌に出てくる言い回し。

「まず下位から始めよ」


先ず隗より始めよ、巨大プロジェクトは手近なところから始めるのがいい、という意味。「下位」というのはプログラムの細かいところとか、サブクラスとか、そういう感じで言っている。

「渋谷でよくやっていた」


渋谷のカフェの窓際のカウンターでコーヒーを飲みながら道行く女子高生を観察していた頃がある。


ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編


この巻は何度も読み直したがそれでもよく分からないのでまた読み直しているが、だんだん無駄なことをしているような気がしてきた。

「昨日はとある場所に行ったら」


駒場の東京大学教養学部。葉が落ちた銀杏並木は、とても綺麗だ。

「ギギギギィィィ、みたいな声で鳴いている鳥」


(何の鳥か分からない。)

「小太り爺さん【謎】」


こぶとりじいさん、を変換したらこうなったので面白いからそのまま残してある。第2部のところで書いたように、私は岡田のアザはこぶとり爺さんのコブの役割と同じと解釈している。

「鬼と戦うというペプシみたいなバトル」


桃太郎が鬼と戦う実写的なCMが放送されていた。

「注文の多い料理店」


宮沢賢治さんの童話。童話ではどちらかというと脱いでいくような。

「膵臓を食べたい」


住野よるさんの小説「君の膵臓を食べたい」

「スカボロフェアに行くつもりですか」


Simon & Garfunkel の歌「 scarborough fair」は、次のように始まる。

"Are you going to Scarborough Fair
Parsley, sage, rosemary and thyme"


この歌は日常生活と戦争シーンがオーバーラップした構成になっている。ねじまき鳥クロニクルと共通した感覚がある。

「アンドというのは香辛料ではない」


前述の歌詞の通り。and は接続詞。出てくる香辛料は歌としては香辛料というより魔法に絡んでくる奥深い話らしい。タイムトラベラーでラベンダーの香りでタイムトリップする感覚かな。

「「だから」という演算子の両側のオペランド」


日常言語なのにプログラミング言語的解釈をしている。

「真偽」


真偽値というのはプログラミング言語でよく使われる概念。

「chat」


チャットはパソコンとサーバー、あるいはパソコンとパソコンをネットワークで接続して、文字を送受信することで会話するサービス。あるいはそれを使ったコミュニケーションのこと。

「UNIX」


OS の種類。今は Linux という表現が有名だが、Linux というのも UNIX の亜種なのだ。

「バットで殴り殺すという殺人事件」


1980年11月29日に、20歳の男が両親を金属バットで殴り殺す事件があった。

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書評ブログに転載した書評の裏解説

昨日「いつか読んだ本」に転載した「ゲーデル,エッシャー,バッハ あるいは不思議の環」の書評だが、補足しておかないと何のことか分からない(というほどでもないが)ネタを裏話としていくつかメモってあるので、裏ページだし、こっちに書いておく。こういうのを何かうまく見せたいんですよね。

「Amazon の書評が全部5つ☆なんてのは珍しい」
当時はそうだった。今は☆4つがある。

「ないでつが」
ないですが、のネット的【謎】表現。故意に「でつ」としている。

「なんでキューかそれは?」
プログラマーズフォーラムの常連にあざらしさんという人【ダウト】がいて、このような言い方をした。消息不明。

「カッパの屁」
ASCIIというコンピュータ雑誌のパロディ版「年刊AhSKI!」という付録に出ていた書籍広告の中に「ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいはカッパの屁」という本があった、と思う。よく覚えてません(笑)

「サン・テグジュベリ」
(これが本当に見つからない。)

「チューリングがどうにも止まらないと言って」
チューリングマシンの停止問題。「どうにも止まらない」は山本リンダの歌。

「フォン・ノイマン氏」
コンピュータの大御所。チューリングとはお友達だったとか。

「あのオープニング曲がソラミミになっている」
これを書くと絶対音的に違う違う違うと力一杯力説する人がいて困る。

「とりあえず上に上っていったら元に戻ってしまったので、エッシャーさん、ここ書き直しましょうよ」
階段を上がり続ける例の騙し絵が出ていたと思う。いくら開発しても終わらないプロジェクトのイメージ。

「(ちゅどーん)」
高橋留美子さんのマンガに良く出てくる効果音。ここでは「うる星やつら」の基本設計になっている不条理性を意識している。

「指がポイント」
両手を使って、親指、中指、薬指を曲げる。

「長調は明るく感じられ、短調は暗く感じられるのはなぜか、というネタはプログラマーズフォーラムでも出ました
(調査中、ROM墓場か?)

「前田慶次」
大ふへん者と書いた旗をかかげて戦った話が有名。大武辺者と自ら名乗るとは思い上がった奴といわれて、これは大不便者だと言ったとか。

「ラッセルのパラドックス」
全ての集合を含む集合は「全ての集合」には含まれていない、とかいう。

「ヘビメタ論理?」
ヘビメタはロックのジャンル。音楽の話題も出てたので何となく。

「まあお茶でも」
趙州禅師の喫茶去。

「えぐるように書く」
あしたのジョーの「えぐるように撃つべし」。

「大悟」
一休さんはカラスがカアと鳴くのを聞いて大悟したという。そういうイメージで書いている。

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気になっている本「大合格」「もっとヘンな論文」

先月のアフィリエイトの報酬が6円とかで、何とかしないと如何ともし難い状況なのだが、本当に購入されたら報酬入るのか、というわけで誰か買わないかと思ってココログ久々にリンクしてみます。これまだ買ってないから書評は書けないけど、買ったら書く予定。Amazon って今も自分購入不可なんですよね?

大合格 参考書じゃなくオレに聞け!

オリラジの中田さんの本。受験と恋愛どうする、みたいな相談に答えるような内容になっていたはず。案外というと失礼かもしれないが、チラ見した感じでは、かなり的確なアンサーだった。

もっとヘンな論文

これはですね、ヘンな論文という本もあって、その続編が最近出たのです。チラ見のときに気になったのは、花札の考察。これで論文にできるのなら、ポケモンの考察も論文にできるのではないか、ていうか既にありそうですね、絶対に。

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書評: 夜は短し歩けよ乙女

昨年、個人的にはオススメとか書いておきながら書評をサボっていたら大変なことになっている、ていうか書店で平積みになっている! 一体何があった、というのはアニメ映画が公開されてるので業界が大プッシュしているのだ。源さんが声やっているのだけど、それなら実写でやって欲しいような気もする。

ということで、今日は森見さんの「夜は短し歩けよ乙女」の書評になっていない書評である。以前紹介した「新釈走れメロス」にはここに出てくるキャラも出てくるが、こっちが本編なのだ。多分。

ヒロインは、超天然フルカラー的なありえない鈍感な黒髪の乙女。あるいは、実直なようで単にバカな先輩がヒーロー…なのか? どちらも作中に名前が出てこないので何と呼んでよいやら分からない。この黒髪の乙女は底なしに呑めるイケるクチで、初対面のオッサンと飲んで幸せになれと言われたときに、

「でも幸せになるというのは、それはそれでムツカシイものです」
(p.21)

ボソっと言うことにしては奥が深い。ポン酢醤油でも買いたくなる。

ところで、この話は舞台が京都なので、京都はまかせとけ、とても詳しい…とはとても言えないがほぼほぼ詳しい私としては、至る所に出てくる京の街なみの描写がとても嬉しいものだ。

「四条木屋町、阪急河原町の地上出口のわきでは」
(p.11)

目の前に夜の人通りの多い光景が目に浮かぶようである。どこの出口だかよく分からないが気にしない。そういえば何か先日祇園さんに行ってお願いをした後で駅に入ろうとして地下道で迷ってしまったけど気にしない。次のブラタモリが確か祇園だよな、また暗渠探すのか。とにかく京都はいい街だ。なのにあなたは京都に行くのと責められても一度は行くべきだ。

「夜の木屋町先斗町で、夏の下鴨神社の古本市で、さらには日々の行動範囲で――。附属図書館で、大学生協で、自動販売機コーナーで、吉田神社で、出町柳駅で、百万遍交差点で、銀閣寺で、哲学の道で、」
(p.156)

大学の中はよく分からんが。まあいいや。昔は初詣は八坂神社に行って、そこから気分で南に向かって清水寺まで歩くこともあれば、また気分によっては哲学の道を歩いて銀閣寺方面まで行くというのが定番で、どっちが定番なのだといわれると困るのだが、もう久しく行ってないからすでに歩けない距離と化しているかもしれない。もちろん道が延びたのではなく体力が衰えたわけだが、ポケモンGOにでも手を出して足腰を鍛えた方がいいのだろうか。地雷を踏むのは嫌だからまだプレイしてないけど。哲学の道なんて何年も行ってないからいつの間にか動く歩道になっているかもしれない。

もちろんキャラは全部変人だ。まともな人は1人も出てこない…と思う。古本屋の神様は神様だから人じゃないし、比較的マトモなのは事務局長かな。

「怪しいものの陰には、たいてい樋口さんがいるなぁ!」
「おいおい、お世辞はよせ」
(p.185)

だいたいこのノリである。空を飛べる人も出てくる。

ところで、この本の解説の「かいせつにかえて」がまたいいのである。かえているのだから解説ではないのか、意外とややこしい。この2ページに出てくるショートコントじゃなくて名言みたいなのが光っている。森見さんの作品はこの種の禅的なお言葉がサラっと出てくるので油断して迂闊に読むとチャンスの神様の後ろ髪を掴み損ねてしまう。最初に紹介したムツカシイものというのも名言なのだ。

人物紹介としては、先輩はいつものアレ的な性格だからいいとして、やはり黒髪の乙女のボケっぷりに注目したい。理想を飛び越えて妄想も凌駕したレベルの天然ボケなのだ。この二人の恋の物語というのが全編のベースクラスなのだが恋というよりもどちらかというと鯉の物語的な感じもするのだ。鯉を背負って学園祭見て回るセンスがオモチロイ。どっか置いとけよ。

センス的には日本の古いおどろおどろしい描写もわくわくする。

「岩波文庫の古今和歌集を立ち読みしたりしながら、私は古本市を抜けていき、やがて、一軒の不気味な古書店を見つけました。」
(p.129)

不気味な古書店って何なんだよ。

そんなの神田には絶対になさそうで京都的な匂いがするのだが、もしかしたら狭い路地を猫の後を追って潜り抜けたら水木しげる先生の漫画に出てきそうな老婆が店番している古書店があって、中に入るとイヒヒヒヒヒとか言われそうな感じ?【なにが】

というのはさておき、何でそういう所に入っていくのか、そこが黒髪の乙女の真骨頂で、お友達パンチという必殺技がなければ今頃行方不明になっていてもおかしくないのだが、そこはご都合主義だから予定調和的に平和な世界だ。細かい表現まで全部オモチロイので、心して読むべき本だ。なむなむ。

ところでアニメは観た方がいいのだろうか…。

夜は短し歩けよ乙女
角川文庫
森見 登美彦 著
ISBN 978-4043878024


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モーニング

マンガ雑誌の話。いつのまにか350円になっていた。普段は nanaco で支払っているので気付かなかった。今日は買い忘れてしまい、いつもと違うコンビニで現金払いだったために気付いたのである。

個人的には、先週号のカカシの話が面白かった。

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書評: 新釈走れメロス 他四篇

以前、太宰治の小説、走れメロスの暴評を書いたことがあった。あんなくだらん話はないぞ。しょうもない。これだけ書いておけば太宰も本望、書いたのはそんな趣旨だった気がする。違うかもです。

走れメロスをそんなバカな解釈する奴はいないと思っていたら、はるかに常識を凌駕する解釈をする凄い人がいた。その人の実際の作品がこの本である。

「新釈走れメロス 他四篇」(他四篇というところポイント)という書名に釣られた人がいたとしたら、あなたはお魚だ。その実体は釈でも何でもなくて、メロスに出てくる表現を多少借りた小話に過ぎない。実はこの文庫本の作品の中では「桜の花の満開の下」が圧倒的に好きで、これは実は森見さんの実体験をアリのままもしくはキリギリスのパパになったつもりで書こうとして失敗した私小説ではないかと妄想もしてみたのだが、想像するだけで疲れてしまうので、まず次に気に入った、というか頭に来た山月記について評したい。

もちろん山月記といっても原作とは殆ど関係なく、ありていに言えばふつーのパロディなのだが、なぜこの山月記が気に入ったかというと、私は「もんどり」を漢字で書けるからである。

「深夜になって、彼は急に下宿のドアを蹴破ると、「もんどり! もんどり!」とわけの分からぬことを叫びながら闇の中へ駆け出した。」
(森見登美彦著、新釈走れメロス他四篇、角川文庫、p.10)

いきなり横道に逸れておくとこの表現は同書収録作、「走れメロス」の

「芽野は「大学自治! 大学自治!」とわけの分からぬことを叫びながら百万遍交差点を駆け抜け…」
(p.133)

これと酷似した表現で、森見氏のお気に入りの表現なのか、意図的にフラッシュバックやバックドラフトさせることで奇天烈な心理的効果を狙ったのかもしれず、真相は藪の中だが、とにかく山月記に関しては、もんどり記といってもいい位のもんどりオンパレードであるという事実に注目しなければならないのである。そこに太宰氏の元作品に見られる荘厳でキリスト教テイストの教条主義的な雰囲気は微塵も無く、ただ只管「もんどり」の話を刷り込むことに終始しているのがオモチロイ。

特に、モン鳥説が凄い。

んなの私は聞いたこともない。森見氏の小説は京都の実在する風景描写も秀逸ながら、妄想系に走ったらベクトルが常人と違い過ぎて誰も付いていけず、付いていけるのは俺だけ的な錯覚を感じることも多々あるのだが、それにしてもモン鳥はないだろ。

もんどりというのは由来を辿ると鳥獣戯画の時代に遡って、蛙と兎が相撲を取っているマンガは教科書にも紹介されるほど有名だが、その中に投げ飛ばされてさかさまになっている蛙がいるのを覚えているだろうか。この蛙をもんどり蛙という。その時代の「もんどり」の細かい意味はよく覚えていないが、今でも使われる「もんどりうつ」という表現は、このマンガから来ているのだ。

ウソだけど。

私の妄想は置いといて、もんどりという言葉は好きだ。漢字で書けるという話は最初に書いた通りだが、漢字で書いても読める人は少ないだろう。この小説には「もんどり」を漢字で書いた箇所はない。ルビを振ったらモン鳥という創作が意味不明になってゲシュタルト崩壊するので、漢字で書けなかったのだろう。何事にも合理的理由はあるものなのだ。

「もんどり」を漢字にすると3文字になる。

その3文字の最初の2文字は、この小説の中に出てくる。ということは、2文字まで気付いたところで、ははぁ、森見さん、この小説の中にもんどりを漢字にしたときの3文字をバラバラにして隠すことでサブリミナル効果を狙ったのか、そう仮説を立ててみた。ならばあと1文字だ、それはどこに出てくるのか。何度も精読したが見つからない。探し方が悪いのか。京都人なら先斗町というお手軽な地名もあるのに、それすら出てこない。くっ、騙された。そうやって精読させるのが狙いか。芸が細かいじゃないか。

というのが先ほど「頭に来た」と書いた理由だ。早い話が単なる八つ当たりというか私の妄想起源の逆ギレなんですな、すみません。

それはそうとして、最後まで読むと何気に悲しいお話だ。そこは山月記さながらである。あの小説は国語の授業で体験した人も多いんじゃないかと思う。私もそうだが。そういう人は悲しいどころじゃなくて、読解に血眼になって考えてうんうん唸っていたに違いない。もっと落ち着いてリラックスして読めばいいのに。アレは難解な小説ではなくて、とても単純で、そこはかとなきかなしさをしる、みたいな名作なんだ。原作は。蛇足しておくと血眼を「けつがん」と読んでしまった人がもしいたら「ちまなこ」と読んでくれることを切に望む。

(^^;)

さてもう一編紹介しよう。題名にも使われているのだから代表作に違いない、走れワロス。じゃなかった、メロス。主人公はメロス役が芽野史郎(めのしろう)、セリヌンティウス役が芹名雄一(せりなゆういち)という。何でシロウなのか知らんが作品中に北斗の拳が出てくるからケンシロウから取ったとか、そんなとこだろ。そして原作の二人も相当バカだかこの二人も猛烈にバカだ。芹名氏のセリフ、

「しかし、あんたの期待するようなつまらない友情を演じるのは願い下げだ」
(p.138)

これだけなら極めてカッコイイのだが、

「そのためにブリーフ一枚で踊ることになっても?」
「そうとも」
(同上)

バカだ。

ていうか芹名は最初から踊りたいに違いないのだ。勝手に踊るとバカ丸出しだから理由が欲しいのだ。王様役の図書館警察の長官は最後は一緒になって桃色ブリーフスというユニットを結成して踊ることになるのだが、はて、原作の王様の名前何だっけ(実はないのです)、まあいいや、バカは伝染する。どうせならモモクロみたくモモブリという略語も作って欲しかった。だって刺身にしたら美味そうではないか。ミカン食わせて育てる養殖ブリみたいで。関係ないけど。

個人的には「夜は短し歩けよ乙女」とか「きつねのはなし」もオススメなんだけど、あえてまず、こちらを書評させていただいた。いつにもまして珍評になってしまったような気がするのだが、結局どこかハメられた感がしないでもない。

新釈 走れメロス 他四篇
森見登美彦著
角川文庫
ISBN 978-4-04-103369-2


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書評: あしながおじさん


ここで問題。
あしながおじさんの足はなぜ長いのか。
もし「読んで次の問いに答えなさい」にこんな問題が出たら、国語の試験だったらふざけるなという結論になってしまうのだろうか。
そもそも長いとか短いというのは主観的な評価である。
誰かが長いと思っていても、他の人から見たら短いかもしれない。
だからといって足1m長おじさん、では夢もロマンもない。


心理学の試験だったら、主人公のジルーシャの空想がどのようなものかを心理学用語で説明することになるかもしれない。
そもそも、ジルーシャがこの男性を「足長おじさん」と呼んだ理由は、作品中では「丈が長い」からなのだ。
確かに身長が高いと足も長いのが普通だし、胴長おじさんではこれまた何かが違う。
背高おじさんと呼ばなかったのはなぜなんだろう。
そういうことを気にする話ではないのだが、気になる。


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コロコロの9月号がどこにも売ってないのだけど

もう10件以上回っているが池袋、新宿、どこに行っても売り切れ。8月号なら置いてある店があった。

何か売り切れるような要素があったのだろうか?

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書評:学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話


今話題の本の紹介。
最初に言っておくが、
この本の「さやかちゃん」はかなり頭がいい


さやかちゃんが塾に来たときの偏差値は30以下で、慶應合格ラインは70。
つまり40上げる必要がある。
これは、

市民ランナーがオリンピックで金メダルを取ろうと言っているのに近い


(p.117)


普通有り得ないような話なのだ。
勉強を始めた頃の描写が興味深い。
聖徳太子を「せいとくたこ」と読んでしまう。
そして、きっと超デブだったからこんな名前付けられたというのだが、このような発想で頭がいいことがよく分かる。
普通の人は読めない漢字は読まずに「分からない」「読めない」で済ませてしまうものだが、
さやかちゃんは無茶苦茶でもいいからとにかく読んでしまう。
しかも理由まで考えている。
「太」からデブを連想したのはデタラメではなくて合理的だ。
ちゃんと論理的思考ができるのである。


コーランは何語で書かれているかという質問をしたら、

「1万5千語」(正解はアラビア語)」


(p.102)


コーランは何語でという質問に文字数を答えるという発想もヘンだけど、見落としてはいけないのは、1万5千という数字を出すところだ。
これが凄い。
「世界にピアノの調律師は何人いるか」というマイクロソフトの面接問題が有名だが、このような質問をされても普通は数字が出てこないものだ。
さやかちゃんは何か理由があって1万5千という数字を出した。全然違うんだけど。本当は約7万8千語らしい。


こんな感じで、普通なら思考放棄するようなことを、とにかく考えまくる。
これは頭のいい人の特徴だ。


この本をうっかり読むとおバカ女子高生みたいに誤解するかもしれないが、どんなに頭がよくても勉強しなかったら問題が解けないのは当たり前のことなのだ。
だから、頭が良くない人は、これを真似しても1年で偏差値を40上げることはできない。
安易に真似すると大怪我しそうだ。


最初に紹介したように、受験はよく長距離走にたとえられる。
昔から定番の比喩で、私もよく使う。
低いレベルの高校から国立大を目指すのは、マラソンで足の遅い人がスタートに出遅れて鉄下駄を履いて走るようなものなのだ。
さやかちゃんの場合は

50メートルを10秒で走っている子に、5秒で受かれば受かるよ、だから走りなさい、と言うのと同じ


(p.120)


この微妙な設定が面白い。
100メートルを10秒未満で走る人間がいるのだから、原理的には50メートルを5秒で走ることは可能である。
ただし、スタートから加速する時間が必要になるので、50メートル走の世界記録は5秒5程度らしい。
100mを10秒未満で走れるのは後半が速いのだ。
だから、後半だけの走りをすれば、5秒は切れる。


ではどんな勉強をすればいいのか。
古来から、学校の授業はまず教科書、理解してから問題を解いて確認という順序だし、問題を解くときには考える。
考えて分からないとヒントをもらって考える。
しかし、これではスピードは出ない。
だから、坪田氏のすすめる勉強法は問題集ベースだ。

基本、参考書ベースではなく、問題集ベースでやることが大切です。なぜなら「入試」は問題集ベースですから。参考書はあくまで「参考」程度。問題が解けない場合だけ解説を見て「解き方を覚える」。そして、とにかく「解いてみる」。これで十分なのです。


(p.129)


極端な話、まず何も分からない状態で問題集をやれという人もいる位だ。(弁護士が書いた究極の勉強法、木山 泰嗣) 


てな感じで、この本には、勉強法についてもいろいろ書いてあるので、受験生の人にもおすすめなのである。
個人的にいいと思ったのはコレ。

調べた英単語に線を引く


(p.150)


高校生の時にやったことがあるから。
実はその辞書を長年探しているのだが、なかなか出てきてくれない。


学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

坪田信貴著

KADOKAWA/アスキー・メディアワークス


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書評:東大生が選んだ勉強法


昨日の投稿の中にちらっと出てきたので、この本の紹介をしておく。


簡単にいえば、東大生がやっていた勉強法をいくつか紹介した、という内容である。合格した人がそれをやっていたというだけのことだから、これをすれば東大に入れるというわけではない。中には物凄いのがあって、普通の人がやったら逆に入れなくなりそうなものまである。例えば、

参考書はまったく使わず、教科書一本で勝負した
(p.44)


Yahoo!知恵袋の受験カテゴリでは、「勉強のやり方が分からない」というFAQがある。
情けないことに明らかにFAQである。
何が情けないかというとその質問している人ではなく教育関係者だ。
一体学校で何を教えているのかといいたい。


そこでよく書く回答が「まず教科書を全部丸暗記しろ」だ。
それが出来たら次に何をすればいいか質問しなさい。
まだその「次の質問」をしてきた人は一人もいない。


理由は明白、教科書一冊なんて覚えられないからだ…と思った人は甘い。この本にはちゃんとそういう人が出てくる。
しかも複数だ。
ただし、ここに出てくるのは東大に受かるレベルだから、誰にでもできるのかというと定かではない。
しかし、教科書だけで勝負できるというのは知らなかった。
そんなに凄い効果があるとは。


この本の面白いのは、理由とか説明しているわけではなく、単に羅列してあるということ。
だから、よく論争になりがちな、書いて覚える派と音読で覚える派。
両方出てくる。
人によってどちらが向いているか分かれるらしい。
ちなみに、私は知恵袋では「書いて覚えろ」と力説しているのだが、実は読んで覚えるタイプだった。ここだけの話。


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