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永訣の朝

「永訣の朝」は国語の教科書に出ていて、授業で誰も噛まずに読めなかったことをよく覚えているのだが、戦場カメラマンの渡部陽一さんのようにゆっくり読むという発想はあまりなかったかもしれない。 噛みそうになるなら、ゆっくり読めばよいのだ。

この詩の中では「わたくし」という表現がたくさん出てくるが、1箇所だけ「わたし」となっているのはなぜか、という質問がある。

回答が、

「わたくしたち」だと余りに客観視されてしまう いもうとを客体にしたくなかったのだと思う

宮澤賢治の「永訣の朝」について質問です。 とても深いところの質問になってしまう... - Yahoo!知恵袋

それは考えすぎじゃないかな。もちろん詩をどう解釈しようが読む人の自由だから、そのように理解しても構わないだろうが、これはそんな深い話ではなくて、個人的には、1箇所だけ「わたし」と書いてあるのなら、それは「わたくし」とは意味が違うからだ。

具体的にいえば、「わたくし」というのはこの詩を書いている時点の賢治氏を指しているが、「わたしたち」というのは子供の時から今までの、過去の思い出の中に生きている二人を指しているからではないか。私はそういうイメージでこの詩を読んだ。「わたしたち」を一語として解釈するならば、「わたくしたち」という言葉は一度も出てこないのだから、筋は通るだろう。

案外、書き損じだったりするのかもしれないが…

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