書評: せかいいち おおきな うち
カタツムリは「蝸牛」と書く。
ノロいので牛なのか。
この本に出てくるのは、ノロいというよりも呪われた蝸牛だ。
どういう仕組みか分からないが、
自分の背負っている家を巨大化することに成功したカタツムリの話だ。
これは
幼児向けの絵本である。
殆どどこを見ても、
ていうか、私が見た書評の全てにおいて、
この本は、大きな家を持とうとしたカタツムリに批判的な話として評されている。
最初に紹介した、子供のカタツムリのセリフが、それを的確に表現している。
「ちいさく しとこう。」と、ちびかたつむりは おもった。
「おとなに なったら すきな ところへ いけるように。」
そうなのか?
身動きできない大きな家よりも、
自分でコントロールできる小さな家の方がいい、
そういうオチは庶民的であり、ある意味、禅的ですらある。
しかし、人生は限りなく短い。
波風なく暮らして長生きすることに人生の価値を見出すのは構わない。
それは大勢の望むことだし、それすら叶わない人が大勢いる。
しかし、もう一つの人生を望む人だって現実にいるはずだ。
つまり、短く太い人生である。
一瞬の頂点を目指して全てを賭け、それが叶ったら後はどうでもいい、
というような一点豪華主義的な人生だ。
カタツムリが世界一大きく、豪華絢爛な家を手に入れた。
それは素晴らしいことではないのだろうか。
結局動くこともできずに死んでしまう。
果ては廃墟になってしまう。
それでいいではないか。
何も問題ないではないか。
何の名声も物語も残さずに、歴史にも現れずに消えていく大勢のカタツムリよりも、
こうやって絵本に残ったカタツムリの方が幸せ、
そういう感じ方もあってもいいじゃないか。
というようなカラっとした解釈を、もしかしたらレオ・レオニ氏は密かに望んでいたのかもしれない。
世の中、みんな同じだと面白くない。
尖った人がいないと、何も面白くない。
なんて感想を小学校で書ける生徒がいたら面白いだろうな、
とか思ったりしたものである。
レオ レオニ著、谷川俊太郎訳。好学社。
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