« このページにxhtml エラーが発生している件 | トップページ | 「技術が経済のパイをひろげるって話 その2」へのツッコミあるいはボケ、その1 »

書評: 無門関


まだ直っていない。
じゃなくて、書評か。
無門関。




何で知ったのかよく分からないけど最初から知っていた感じもする。
一般には禅の問題集、という位置付けの本だろう。
即ち、公案である。
ちょっとずるをして他のブログを見てみると、
この本には答えが書いてない、という紹介のブログが多い、
というか私の見た所は全部そうだった。
おかしなことだ。どう見ても答が書いてあると思うのだが、
まあそういう細かいことはどうでもいいだろう。


岩波文庫の表紙にも紹介されている「趙州狗子」、
禅をかじったことがあれば必ず知っている話である。
これを読んでいるときに、
たまたま蚊が飛んできて本に止まった。
瞬時に叩いてしまったら、
誰を吸ったのだろうか、本に血が付いてしまったので困ったものだ。
ともあれ第一則。

逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭得大自在、


確か子連れ狼にも出てきた話である。
仏に会えば仏を殺す。
親に会えば親を殺す。
そこに微塵の迷いもない。
そこに在るから斬るのである。
私が修行中の僧だったら、この蚊を殺した所で悟らねばならぬ。
生憎私は僧ではないから困ったものだ。
どちらかといえばクリスチャンなのだ。


しかしGEB本の書評
にも少し禅の話を書いた。
そもそも私は坊主でも何でもないし座禅など一度もしたことがないのだが、
全く禅を知らない訳でもないから困ったものだ。
ということで、眉唾で読んでいただきたいのだが、
GEBのときは、
禅の核心は「言葉では表現できないこと」であると書いた。
だとすれば、もちろんそれを本で直接表現することはできない。


昔からプログラマーの中には禅にのめりこむ人がいた。
なぜ禅なのかというと、
プログラミングという作業は意外と禅のプロセスに似ているからだ。
第九則、大通智勝に、こういう話が出てくる。

凡夫若知、即是聖人。聖人若會、即是凡夫。


超一流のプログラマーはプログラムを書かない、
という話が有名。
この話は昔、不茶之茶という話を書いたときに紹介したが(先週までの格言の、1996-02-25)、
「いと高きところといと低きところは同じなり」と言ったのは沢庵和尚である。
つまり禅である。
そういえば聖書にも、神の国に入るには子供のようでなければならない、
と書いてある。
基底クラスまで行けば宗教どれも共通なのかもしれない。


だいたいこの本読んでると、
小話があって突っ込みがあって頌が出てくる、
というのがプログラム言語読んでるみたいですよね。

讓曰、為伊不成佛。


これだけじゃ分からないか。

僧が言った。「道場に坐っているにもかかわらずどうして仏になれないのですか」。 清譲和尚は言われた。「そもそも彼は仏にならないからだ」。
(pp.54-55)


為伊不成佛というのをプログラミング的に簡単にいうと、
クラスとオブジェクト・インスタンスの違いである。
しかしオブジェクトはクラスを具現化したもので、そういう意味では鏡に映っているクラスのようなものである。
オブジェクト指向は前世紀末に出現したかと思いきや、
なんと13世紀頃に書かれた無門関に既に出ているのだ。


例えば表裏一体という言葉。
全くの白紙を持ってこられて、
これは表か裏かと問われたらどう答えるか。
このブログは表か裏か、みたいなのはどうか。
裏でもないし表でもないとか、
裏でも表でもあるとか。
表も裏もない、というのでもいい。


ということで、
この本は、読んで全然分からんというのであれば大正解である。
こんな本、分かる方がおかしい、
というかわざと分からないように書いてある気がしてしょうがない。
分からんということは、分からないということが分かったということである。
この本読んでも分からん、とブログに書いている人がいるのだが、
つまり分かっていることになる。
何も心配いらない。
むしろ、何だ簡単じゃないか、だいたいどれも分かった、
という人の場合どうだ。
分かったなんて思っているようでは全然分かってない。
そもそも分からないものが分かる訳がない。


第九則の「大通智勝」は要するにそういう話だろう。
いや、知らんけど。
こんな話が48+α個出てくるのが無門関なのである。
いやそれ、おまえバカにしてるだろ、という気がした人がいたとしたら、
それはある意味正しい。
ただ、バカにしている訳ではない。
バカにしているのは貴方自身だから。
という話が第二十九則、「非風非幡」だ。
幡が動いているのを見て、
二人の僧が議論している。
あれは幡が動いていると見るべきか、
それとも風が動いているのか。
ここで先生が出てくる。

祖云、不是風動、不是幡動、仁者心動。


動いてるのはお前らの心だというのだ。
それを聞いて僧は愕然とするのだが、
ところがこれがまだ終わらない。
無門曰く、

不是風動、不是幡動、不是心動、


いや心も動いとらんだろ、
というのだ。
一休さんは屏風に描いた虎を捕まえてみよと言われたそうだが、
屏風に描いた帆掛舟を動かしてみよ、という公案があったと思う。
以来、坊主は屏風に上手に絵が描けるようになった
というのは冗談だが、
実際は
幡が動くというのも
風が動くというのも
自分の解釈に過ぎない訳で、真実を直接知ることができないシュレディンガーの猫のようなもの。
実際見えているのは一体何なのか。


プログラムが動くといってもCPUがどこかに歩いていく訳ではない。
いや、そもそもプログラムが動く、というのは何が動いているのだろう。
あ、プログラムか。


バカの話に戻すと、
あなたの話は面白いね、と言われたことはないだろうか。
意外と話す側は全然面白くなかったりする。
ていうか、面白がってるのは聞いている人達であって、
話している人は、やはり面白くない訳で、
というのが第二十九則、「非風非幡」である。


全然違うかもしれない。
困ったものである。


この本には答が書いてある、と最初に言い切った。
どこに、という人がいたって別に私が困る訳ではないからどうでもいいのだが、
メールで問い合わせが来るのも何だから蛇足しておく。
この本、実は答しか書いてないのではないか。


だから、この本読んでみて、
意味が分からないなんてあまり考え込むのはよくないと思うのだが、
最初に書いたように、私は坊主ではないから禅の話はまるで分かっていない。
本当に禅をやりたいのなら、やはり禅宗系の寺に行って座禅組むとか、
そういう具体的なアクションした方がいいんじゃないかなと思う。


まあ暇つぶしに読むのなら丁度いいんじゃないかということだ。
もしこの本読んでも、
これは凄いことが書いてあった、無門和尚さん、ありがとう、
などと思ってはいけない。
もし今も生きていたら、
バールのようなもので頭を殴られるに違いない。
これはそういう本なのである。
困ったものである。


|

« このページにxhtml エラーが発生している件 | トップページ | 「技術が経済のパイをひろげるって話 その2」へのツッコミあるいはボケ、その1 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 書評: 無門関:

« このページにxhtml エラーが発生している件 | トップページ | 「技術が経済のパイをひろげるって話 その2」へのツッコミあるいはボケ、その1 »