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何となく、これは惜しいとか思った話

これは「押井を憐れむ歌」を読んだ瞬間に感じた諸々のことをテキトーに書いてみた文章がもったいないので、 ちょっと今忙しくて何か書く暇もないし、 出してみる訳である。 校正も殆どしてないし、 言いたいことが分からん、という人が多いかもしれない。 だいたい自分でも今読んでみて、結論が何なのかよく分からない。 ただ、この後に出てくる文章の趣旨として「言いたいことが分からんのは普通である」というテーマがあるので、 まあどうでもいいかと。

ということで、まあ面白いものでもないので、ここで読み飛ばすのが吉。 もし読んでみるという暇な人がいれば、先に「押井を憐れむ歌」を読まないと意味が分からないので、ご注意を。

先に言っとくが私は押井信者ではない。 さっきも、はて、押井守さんって誰だっけ、 と思ってWebで検索して「ああー」てな感じで思い出した位だ。 実際、押井氏のアニメってビューティフルドリーマーと、 パトレイバー…? 見たかな、少なくともパトレイバー2は、絶対に見てないか、 完全に見たことを忘れているか、どちらかである。

私の異議というのは、集約するとこの一点に尽きる。

映画に限らずあらゆる表現において、 それはもう友達との何気ない日常会話においてすら、必要なのは「相手に伝わること」だ。

そこが違う。 大原則として、 いかなる表現においても、 相手に伝わることが「必要」などということはないのだ。

もちろん「相手に伝わる」ということが 単に情報の受け渡しを意味するのなら「必要」いやむしろ「必然」に決まっている。 例えば、映画を見ていない人にその内容は伝わらない。 そんな当たり前のことではなく、 ここで言っているのは、誰かが伝えたい何かを持っていて、 それを「表現」を借りて相手に伝心する、という意味だと勝手に想定する。

原則とわざわざ書いたのは、 ある種の表現は相手に伝わることが「必要」だからだ。 例えば、 法律の条文とか、数学や物理学の証明、論文などである。 ちなみに、法律の条文などは、 素人が見てもまるで理解できなかったりするものだ。 相手に伝わることが「必要」である表現こそ素人には伝わらないという逆説的な現実が面白い。

さらに、伝えたいモノが芸術作品の方向にどんどん向かってしまうと、 もはや相手に何が伝わるか分かったものではない。 モナリザや最後の晩餐のような、古典的、写実的な絵画でさえ、 隠したメッセージがあるという騒ぎになる。 抽象絵画が何を伝えようとしているのか、 分からない人には分からないし、 分かったという人がもしいたとして、本当に作者の意図が伝わっているかどうか怪しいものだ。

もっと根本に帰って考えてみるといいのだ。 そもそも一般論として、 コミュニケーションにおいて、 何かが相手に「伝わる」保証がどこにあるのか。 もちろん、言葉は聞き間違い、見間違いがない限り、 文字の並びとしてそのまま相手に伝わるであろう。 しかし、それが人間の感情としてどのような解釈に至るのか、 それは全く別次元の問題である。 例のページにいい例があるので、引用する。

もし俺が3歳の子に「財政構造改革は橋本政権の急務だよね」と言い、 それが子どもにわからなかったとする。

後は省略。 この話はもちろんOK、別に何の異議もないし、むしろ同感だ。 3歳の子供相手にそういう話をして理解されないのは確かに話し手の責任なのだ。 だけど、そこで話を終えてしまうと、単なるレトリックになってしまう。

つまり、極端な例だけを出して、一般にそうだと誤解させる、 割と簡単なレトリックである。 3歳の子供の場合は分かった。 では、相手が中学生だとどうだ。 分からなかったらどちらの責任なのだろうか。 相手が20歳の大学生だったらどうなんだ。 アメリカの国際経済学者だったらどうだ。 タンザニアの工場の技術者は? 韓国のアニメーターだったら? デスラー総統だったら?

とはいってもそこを議論すると実に面倒なので、 私もそこは触れずに結論を出したい。 そもそも、 どんな相手にも伝わるようにコミュニケーションすることなんて不可能だ。 私の立場はそういうスタンスである。

もちろん、その努力を怠るなという主張はそれなりの説得力があるし、 特にプロなら最大限伝わるように努力しろ、 というスタンスがある意味正しいだろうことも何となく理解できる。 全員に伝えるというのは極論で、 要するにできるだけ多数に伝えるということを言いたいのだ、 と反論されるかもしれない。 あるいは「必要」というのは「望ましい」程度のことなんだ、と言われるかもしれない。 ただ、その全く逆の極端なところにも、 もう一つのやり方が存在する。 最初から大衆的コミュニケーションを放棄してしまうのである。

オレの作品が理解できなくても構わない。 100人、いや1万人に一人でも、偶然特別にジャストフィットする何かがあって、 人生を変えるようなショッキングなトリガーになってくれたらいい、 そういった作品だって一つのプロの成果物として、 価値を持ったものとしてあり得るのではないだろうか。 その場合、多数に伝わることがかえって望ましくない、という現象さえあってもおかしくない。

例えば、そんな映画監督がいるかどうかは知らないが、 とにかく言いたいことが全然伝わらないとしよう。 ことごとく表現は誤解される。 しかし、その誤解の方が観客には受ける。 とにかく面白い。 だったら、それで金を取っても全然構わないではないか。 監督が何言いたいなんてことは、全然関係ない。 基本的に、そこに支払う対価としての内容があれば、 それは支払うに値するはずだ。

話を戻すと、早い話が、 押井守が嫌いだというのはその人の自由だ。 嫌いだったら見なければいい。 それだけのことだ。 そこをわざわざ見ておいて「嫌いだ」というのは、 逆に何かハメラレているような気もするが、まあどうでもいい。

①簡単なことを、簡単に言う。
②簡単なことを、難しく言う。
③難しいことを、難しく言う。
④難しいことを、簡単に言う。

でも世の中そう簡単ではない。 「簡単か難しいか分からない」ことがやたらたくさんあるような気がするのだ。

そういうコトを表現したら、一体どうなるか。 簡単に言うことができるのか、それとも難しいのか、 あるいはどっちか分からないのか?

だいたい、情報の解釈なんてのは、 その人の全ての人生経験が反映されて出てくるものだ。 自分と同じ解釈をする人は一人もいない、 というような哲学的な考え方もあるはずだ。 多分。

彼の話によると、押井さんはこの映画で言いたいことが十分言えなかったそうなのだ。 そこで「あそこのあのシーンはああいう意味があります」みたいなことを書いた解説本を出したそうなのだ。 ゼミの押井信者くんはそれを読み、映画「パトレイバー2」の本当の姿がわかったという。

この後の大罵倒が面白い。 そこに書いてあることには、 私もかなり同感する。特に反論はない。 ただ、一つだけちょっとした疑問が残る。 これは異議ではなく、純粋に単なる疑問だ。

仮にもメジャーな人であり、 映画のプロ、アニメ監督のプロが、 その最も得意技であるはずのアニメですら語ることができない、 伝えることができない、 そんなに難しい(?)内容なのだ。 それを本に書いて他人に伝えるなんてことができるのだろうか?

ゼミの信者くんは「わかった」そうだが、 本当か? 誤解ではないのか? 押井氏は確かに「ああいう意味があります」と本に書いたかもしれない。 それは本当に押井氏の言いたかったことなのか? 書き間違いということはないのか? ちょっとだけネタバレになるけど、 その「わかった」内容に「神」という言葉が出てくる。 ほら、もう怪しいじゃないか。 このゼミの信者くん、実際に神を見たことがあるのか? 見たことがあるとしたら、それが押井氏のいう「神」と同じである確信は一体どこから来たのか。 もし見たこともなかったら、見たこともないものをなぜ理解できたと断言できるのか?

どんな表現でも必ず読み手は理解できるというのが極端な発想であるように、 どんなことでも必ず書き手が表現できる、という発想も極端な話なのだが、 経験的に、何でも表現可能教の信者は大勢いるような気がする。 実際は、書いてあることが書き手が書きたかった内容である保証すらないのだ。 現実というのはそういうものだ。

つまり、 多分私はもっともっと懐疑的なのである。

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