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書評: ホームレス作家

ホームレス作家
松井計 著
ISBN4-344-00112-5
幻冬舎

文庫本も出ている(ホームレス作家 (幻冬舎アウトロー文庫))。なお、bk1では取り扱いできないそうなので、今回は amazon にリンクしました。

何故、この人はこうしてたくさんのトラブルを抱えてしまったのだろう、と不思議に思われる方もいるかもしれない。
(p.264、あとがき)

いるかもしれないが、私はそう思わない。全然不思議ではない。というのが第一印象である。

この本は松井氏が実際に路上生活者となったときの経験を元にしたノンフィクションだ。

トラブルになって当たり前のような行動が至るところに見られるのに、本人それに気付いていないのだろうか? 例えば何月に原稿料が入るはずだから大丈夫だ、のような、根拠軟弱な判断、そしてトラブルが発生したときの何の事前の策もない、そういうポリシーで生活をしていたら、トラブルがトラブルを生むのは不思議ではなく当然の結末だろう。なお、そういう生き方がどうだと言うつもりはないので念の為。

で、不思議なのはむしろ、松井氏の生活が基本的にその種の楽観的な想像に支えられているように見えるのに、
いざ路上生活者になってしまうと「まあなんとかなるだろ」系の楽観的な態度が掻き消されてしまうという現象だ。これは何故なのだろうか?

申し訳ないが、松井氏の著作はこの本と、もう一冊、続編のホームレス失格という本があって、その2冊しか読んでいないのだが、正直言って、テーマ的にはあまり面白くなかった。もっとも、ホームレスとはどうなのだということが書いてある本が面白くていいのか、という話もありそうだが、それはそうとして、この本を読んでも結局、著者が路上生活をしているにもかかわらず、ホームレスとは何ぞや、という肝心の所がしっかり見えてこないのだ。ぼやけているのである。

厳密に言えば、松井氏はホームレスといっても、どこかの公園でダンボール箱の中に寝ているような人たちとは全く違う種類の生活をしているのだから、読んだときにそのようなギャップを感じるのは当然なのだが、それにしても、他のホームレスの人達とどうやって交流したとか、他の人達がどんな生活だとか、そういった描写があまりにも少ないのである。

これは、どこかで松井氏がホームレスという生き方を頭から否定しているからではないかと思う。氏はそうではないというようなことも書いているのだが、言葉でそう主張してみても、実際の行動がそう感じさせないのは皮肉な話だ。

もちろん、氏の文章が面白くないとかいうことではない。実はこれも奇妙なことかもしれないが、ホームレス失格で延々と綴られている、家庭内のいざこざの話、役所とのトラブル、そういった描写は凄く面白いのである。ただそれは、つまり、ホームレスとはあまり関係ない、家庭内不和の話なのだ。しかし、これこそ氏が実際に当事者として体験した生の描写なのであり、要するにそのリアルさが面白いのではないかと思う。

裏を返せば、ホームレスの話がいまいちだと思ってしまう理由は、それがアンリアルであり、氏が本当に体験したというより、少し距離を置いて見たものを伝えているに過ぎないからではないだろうか。例えば窮乏生活の小話にしても、ワゴンセールの古書の中から掘り出し物をgetして、他の古書店で高く売って利ざやを稼ぐ、というエピソードとか、電車にずっと乗っていたいときには130円で切符を買って、出るときに150円の区間で降りて清算するとか。そういった所は面白いのである。まさに氏が体験した現実の描写だからではないかと思う。

昔、ある高名な作家が書いたエッセイで、浮浪者のことを真の自由人だとする文章を読んだ記憶がある。彼らは総てのしがらみを捨て、自由に生きることを選んだのだと。確か、私もそのように生きたいと望むことがある、とその文章は結ばれていた。

 私は、唾棄する心境をもってこの文章を否定する。何たる飽食の論理、何という机上の空論。総てのしがらみを捨てることができたかどうかは別として、確かに彼らは一見、完全な自由を獲得しているかのように見える。しかし、暖かいベッドや空腹を充たす食事を捨ててまで彼らが獲得しようとしたものは<自由>などという陳腐なものではない。もっと切実で狂おしい何かである。

(p.124)

松井氏は同著で「浮浪者失格」と書いている。失礼ながら、まさにその通りだと思う。確かに松井氏のような生き方をしていては「自由に生きること」など到底捕まえることはできないと思う。「彼ら」と豪快に一括りにして書いているにも関わらず、氏は「彼ら」とは別世界の人間であり、「彼ら」を理解しようともしていないし、理解する能力もないのではないかと思う。

まあそういう意味では確かに「彼ら」は「彼ら」なのだが、その反面、ここで否定している「彼ら」というのはある意味実は松井氏自身のことであって、他の何者でもないような気もする。

自由というものを獲得するのは非常に困難を極める。マイ・フェア・レディでイライザの父親がハメられて大金持ちになってしまった後、しきりに騙されたとボヤく。イライザは、だったら金を捨てればいいではないかという。それができないのだ。金に縛られてしまった、というのだ。たかが「金」だけでもそうやってコケるのが人間だ。自由なんてものを真に獲得できる人間が一体どれだけいるか、と思うとどうもよく分からない。

ただ、ホームレスになればそうなのか、というと別段そうとも思えないのだが、少なくとも、衣食住に縛られた生活をしながら「自由」を語るのはおこがましいだろ、というような気はする。もっとも、衣食住のどれかが欠ければ、即、死に近づくという現実があるが、自由というのはもっと超越したところにある筈だ。

先日見たTVで、ダンボールハウスに住んでいる人にインタビューしていた。そこから出て行く気はないのかと。しかしこの人は言う。ここは天国なのだと。今まで生きていた中で、今が一番幸せだ。何の不自由もないのだと。もちろん、それを言葉通りに受け取ってはいけないのかもしれないが、そういう生き方も確かにある。「もっと切実で狂おしい何か」の正体はそういう所にあるのではないか。

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