書評: 走れメロス
走れメロス 改版 (角川文庫クラシックス)
ISBN4-04-109904-8
太宰治 著
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならないと決意した。
メロスは牧人だというのだが、切れやすい。しかも王を暗殺しようとする。つまり、今風に言えばテロリストである。王が邪智暴虐という漢字では書けそうもない性格であるというが、言い訳にもならない。独裁国家を民主主義にするのだといってどこかの大統領が一般の民衆を数千人巻き添えにするような現実世界に比べたら、のほほんとした、のどかな物語かもしれないとしても、そこまで決心した相手と最後は仲良しになってしまうというのは無茶苦茶シナリオがおかしい。
この本には、富嶽百系、東京八景などの随想文が掲載されている。「走れメロス」と「駆込み訴え」のような所謂名作とはまた違った風情を楽しめる。と書きたい所だが、別にここは新聞の書評コーナーでも書店の推薦文コーナーでもないのだから正直に書いてしまうと、私は、世間で騒がれている程には太宰治を天才だとは思っていない。あえて言うなら、普通のヘンな人である。今ではインターネットというモノを皆さんがすなりという訳で、直接、生の普通の人の様子を知ることが簡単にできるようになった。実際、ブログなど見ればすぐに分かるように、あまねく普通の人は普通の人なのだ。もっとも、その「普通」というのが普遍的な標準パターンに照らし合わせてみればやや異常であるのも事実なのだが、太宰はそういう意味では異常でもなく、単なるヘンな人なのだと思うのだ。
実は天才というのはそういう者なのかもしれないし、ということで、太宰の作品はそのあたりの可笑しさは天才的だから、読もうものなら気軽に読めてしまうのだが、その奥深い所にあるドロドロしたものにはなかなか気付かないし、気付いてもあえて示すことがタブーになっているのではないか。
従って、走れメロスを読む人は、メロスが王を殺すと決意したことに何も不自然さを感じない。いけないことだとさえ思わない。いや、いけないと思ってはいけないのである。この作品の流れから考えると、善人であるメロスが王を殺すに至るまでに、本当は、何年もの苦悩の日々がある筈なのだ。それが一行どころか、なんと冒頭の最初の文章が始まる前に省略されてしまっている。それだけでも不思議なのに、しかも、暗殺に失敗した後、メロスは妹の結婚式があるから処刑を待ってくれと言うのだ。だったら結婚式が終わってから暗殺すればいいのだ。無計画すぎる。
だとすれば、やはりメロスは単にキレる人に過ぎないのかと思ったりするわけで、それに加えてさらに謎なのが、親友のセリヌンティウスである。だいたい、二年間も合わない親友という設定に無理があるような気がしないでもないが、身代わりになる時には何も言わずに抱き合っただけで納得できるような関係なのに、結局疑ってしまって、しかも殴りあわないとチャラにできないのである。親友ならメロスがキレやすい性格で無計画に行動することは百も承知している筈なのに、絶対に帰って来ると言い切る。頑固というか、あまりに単純である。いや、どちらかというと、もうこんな人はイヤだぁ、という感じで自暴自棄になったのだろうか?
「駆け込み訴え」という作品が、ぐちゃぐちゃした精神世界を書けるだけ書いたものだとすれば、走れメロスは、それを読者に全部考えろという恐怖の物語なのではないか。読者がそこを踏み込んで読めない限り、上っ面に書いたことしか見えないような仕組みになっているのだ。ということで、その点、やはり太宰は妙に天才なのである。
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2011/9/21 追記: 現在入手可能な角川文庫版。前述の評に出てくる作品が含まれていないかもしれません。
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