書評: ウィーツィ・バット
ウィーツィ・バット(ウィーツィ・バットブックス 1)を読んだわけで。軽いっすね。個人的には、こういう生き方はアリだと思うのだが、一体どうやって収入getしているのかよく分からない。アメリカって何もしなくても食って寝る所が確保できるのか、みたいな。まあフィクションだからという話だと思うけど、リアリティのことを言ってる。詩だというのは何となく分かるけど、原書読まないとダメなのかもしれない。
ストーリーとか書いたらネタバレになりそうなので内緒にしておきますが、一番印象に残るのは、ライフスタイルとして「生きる」ということを重要視するというあたり。アメリカってキリスト教国なのでは…というのは多分前世紀の幻想で、マジにキリスト教信じている人がどれだけいるか疑問だけど、リーナス氏の本、それがぼくには楽しかったからにも、基本原理のトップ項目はまず「生きる」という本能だというようなことが書いてあった。その後に「楽しむ」というのが出てくる。背景としては、死(あるいは訳の分からないもの)への恐怖、のようなものがありそうな気がするが、それって宗教が最初に解決するはずの問題ではないのかと。
この本に出てくる人たちは、死というのに直面すると想像を絶する位にあたふたして、錯乱状態になってしまう(誇張アリ?)のだが、死というものが生の裏返しである以上は、そこまで死に無頓着というか、考えなしで生活してしまうというのは、クールというよりはクレイジーな生活にも見えてしまう。しかし、死んだらどうするなんて全然考えずに気ままに生きるというのが、結果的には「楽しむ」重視のライフスタイルであると思えば、それは究極のクールな生活なのかもしれない、とか。
余生の期間とのトレードオフはあるのだが、酒豪に対して「あと1週間の命です。しかし、禁酒すれば2週間生きられます」みたいな状況で一体どういう選択をするか。生きることを優先するか、楽しみを優先するか。抽象化するならば、究極の選択。「何も楽しみはないけど、100年生きることのでてきる人生と、楽しみ一杯の20年の人生、どちらがいいですか」みたいな? 20年の人生というのがこの質問のポイント。80年とかにすると多分「楽しみ一杯」を選ぶ人が殆どだと思ったので。
この本とは関係ない、ある村の庄屋の話を思い出した。庄屋なんて戦前の話だろと思うかもしれないが、法的なことはともかくとして、地元の顔みたいなステータスは今でもあるのだと思う。しかし、顔といっても権力は剥奪されているから、収入は基本的に普通にgetしなければならない。土地持っているというケースはあるかもしれないが、楽ではないこともある。この庄屋さんも生活は楽ではなかったが、それでも持っているものは持っているから、村でいよいよ困った人が借金しに来たりする。庄屋という立場上、断る訳にもいかず、できる範囲で無理をして金を貸してやる。こういう金はなかなか返ってこないが、それはそういうものだと諦めている。
庄屋さんには子供がいて、ファミコンが欲しいというのだ。買ってやりたいとは思うが、うちにはゲームを買うような余裕はないのだと諭して、買わずにいる。この子供が学校でいじめられた。ファミコン持ってないからだという。いじめた相手がその金を貸した相手の子供だ。その親がやってきて、今年は不作でどうにもならない。もう少し追加で貸してもらえないだろうか。庄屋は言った。おまえの家は子供にゲームを買ってやる余裕があるじゃないか。私は庄屋だから頼まれたら貸してきたが、そのためにゲームも買えないほど節約しているのだ。お前の息子はうちの息子をゲームを持ってないといじめたそうだが、そんなに余裕があるなら金を貸して欲しい位だ。とか言って断った。
貸してくれと言った一家は、その後いよいよどうにもならなくなって、今どこにいるのか分からないらしい。
| 固定リンク
コメント
同じもん読んだとは思えないほど、高尚な感想ですナー。(^^;
>詩だというのは何となく分かるけど、原書読まないとダメなのかもしれない。
私もそう思いました。
翻訳者も原書の雰囲気を伝えようと、それなりにがんばってるんだろうけど。
ところで、主人公たちは一応、映画作って売って…で生計たててませんでしたっけ?(でも皆10代のような)
投稿: ふひ | 2004.04.15 17:05